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そんな折、私のいる資産運用部門で投資家に一棟で売却しようとしていたマンションを、個別に一戸ずつ分譲するという話が急浮上した。しかしこの部門には分譲販売の経験がない。経験者は在籍していたが、既に全員分譲部門の販売サポートへ出向していた。それほど資金回収は切迫していたのだ。この市況では投資家への一棟売却は不可能だ、だから個別分譲する。その必要性は分かった。人がいないので当資産運用部門自身で売れという経営からの指示も分かった。けれど、経験者がいないのに誰が売る?という話になった。
元々投資家に一棟で売却するために造ったマンションは、賃貸マンションとして運用されることが多い。今回の物件もそれまでの成功事例を踏襲しつつ、都心のハイブリッドな賃貸入居者に訴求するため、一般的な分譲マンションよりもコンパクトで、機能性は充分満たしつつもどちらかと言えばデザイン性に重きを置いて造ったマンションだった。計画時から私もプロジェクトに携わっており、物件のことはよく分かっていた。私は今こそチャンスだと思った。
数週間に渡り私は関係者に日参し、営業に行かせてくれと懇願した。私の部署のメンバーのうち1人は既に社歴も4年になり、一年前に社員登用もされている。私がいなくなることで彼女の責任は一気に増すが、その分大きな成長にもつながるはずだ。一石二鳥どころか、今まで悩んでいたことがここで営業に行くことで全て解決する、とまで思った。
周囲の反対を私自身の情熱と関係部門の後押し(事業部の中でも物件を仕入れ売却を成功させる使命がある部署だけは私の営業入りを歓迎してくれた)でクリアし、私は09年01月、無事営業への出向が決まった。私は少なくとも1億円を売り上げよう、と心に決めた。
周囲の心配をよそに(曰く元々賃貸で造ったマンションが売れるわけない、曰くコンパクトタイプは不況時に最も打撃を食らうはずだ、等々)、物件は滑り出しから大変好調だった 。 |
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寝る間も惜しんでとはよく言った表現で、私はその通り夢中で仕事をした。ろくに勉強する時間もなかったので、全ては体当たりだった。お客さまにおぼつかない思いをさせてしまったのも一度や二度ではない。初めての営業の日々は刺激の連続で、体力的に厳しくとも充実して楽しい経験だった。外部から来たプロジェクトマネージャー始め周囲の支えがあって、結果的に私は個人目標を200%超で達成し3億円以上を売り上げた。物件自体も一ヶ月前倒しで完売した。そして、物件でもほぼ最後となった複数のお客さまとの契約会の翌日の日曜日、会社の私的整理の記事が日経一面にすっぱ抜かれたのだった。
いつかは来ると思っていたけれど、出勤途中で読んだ新聞で知ることになるとは思わなかった。お客さまには「知ってたんでしょう?」と言われたけれど、当然知らなかった。ただ、何らかの形で会社が破綻するのは近いと思っていたので、本質的には否定できない部分もあり、気持ちは辛かった。すっぱ抜かれたのは日曜日で、会社にとっても正式発表前、現場には何のフォローもなかった。出社してから私はその聞いたことのない私的整理の新手法について調べ、派遣の営業スタッフに配る資料を整えて連絡を待った。ギャラリーが開く10時前ギリギリくらいに対応策がようやく発表された。
そこからは必死だった。とにかくキャンセルとならないようにしつつ、お客さまにも誠実に対応しなければ嘘になる。再生計画が頓挫し、会社が破綻した場合のリスクはありとあらゆることが想定されたけれど、どうなるとも分からない中いたずらに不安をあおるようなことも出来なかった。私はとにかく、自分だったらどういう対応をされたら良いと思うだろう、とそれだけを考えて動いていた。結果的に、私のお客様も他の営業スタッフのお客様も含めてキャンセルは一件もなく、最後の住戸も売れ契約も済んだ。程なく全戸の引き渡しも完了し、物件販売プロジェクトは無事終了した。
そうして、私はもといた部門へ戻ることになった。 |
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