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『春走り』
つぼみがまだ全然ほころばない桜の樹を見て、ああこの樹は桜だったなと思ったのなんて、もしかしたらはじめてかもしれない。毎日通る道に立っていて、咲きはじめから散るまでは毎年楽しみに眺めて歩くのに、そのあとはまるでもう桜ではないみたいに頭から消去されている。消しゴムで消したんではなくて無意識にデリートキーを押したような具合に跡形もなく。
なのに今日に限ってこの樹が桜だったことを思い出したのは、さっき吹いた風が少しだけあたたかかったせいなのか、それとも今日仕事に行かないことを決めたからなのか。
支度をして家を出たけれど、あまりにも天気が良くて自然と歩みが遅くなった。空を見上げて深呼吸したら、まだ冬の気配を残すつめたい空気が肺の中にうわっと押し寄せてきて咳が止まらなくなった。さっきは春だと思ったのにやっぱりまだ冬だったと背を折り陽だまりの中立ち止まると、じんわりと背中から太陽の熱がしみ込んできた。つめたいのとあたたかいのが妙に混じった落ち着かない空気。
咳が落ち着いたあと会社に電話をかけた。ここ数日ずっと微熱が続いていた。ちょうど折よく仕事も落ち着いていた。そうして思いがけない休みを手に入れたあと、私は道ばたの桜の堅いつぼみに気がついたのだった。
来た道をゆっくり引き返し、家に帰って熱を測ると七度四分だった。ここのところ一週間近く熱が下がらない。ベッドに潜り込むとさっきまで眠っていた自分のぬくもりがまだわずかに残っていた。
ようやく身体を起こした時には夕方になっていた。何度も浅い夢を見ては目を覚ましたつもりになっていたから、こんなに長い間眠っていたとは知らなかった。
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